活動報告

一般社団法人魚沼青年会議所第36代理事長 三友 玲央 理事長所信

一般社団法人魚沼青年会議所第36代理事長 三友 玲央 理事長所信
  • はじめに
  •  広い世の中、長い人生、いつも心楽しいことばかりではありません。何の苦労もなく何の心配もなく、ただ凡々と泰平を楽しめれば、これはこれで良いことだけれど、なかなかそうはいきません。ときには悲嘆にくれ、絶体絶命、窮境に立つこともあるでしょう。しかし、それも良いのではないでしょうか。その中から人は人生の深さを知り、世間の味わいを学びとることができるのだと思います。頭で知ることも大事ですが、身をもって知ることが何より大事です。窮地に立つということは、身をもって知る尊いチャンスです。得難い体得の機会です。そう考えればたとえ苦しくても勇気や元気が出ます。思い直した心の中に新しい知恵がわいて出ます。そして、禍転じて福となす、つまり一陽来復、暗雲に一筋の陽が差し込んで、再び春を迎える力強い再出発の道がひらけてくるのだと信じております。

     自分ひとりの頭で考え、自分ひとりの知恵で生み出したと思っていても、ほんとはすべてこれ他から教わったものです。教わらずに、学ばずに、人は何一つ考えられません。子は親から、生徒は先生から、後輩は先輩から。そうした今までの数多くの学びの上に今の自分の考えがあるわけです。ですから、良い考え、良い知恵を生み出す人は、必ず良い学びの人であると言えます。学ぶ心さえあれば、万物すべてが我が師であります。語らぬ木石、流れる雲、無心の幼児、先輩の厳しい叱責、後輩の純情な忠言、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の原理が密かに脈づいているわけで、また、人間の尊い知恵と体験が滲んでいます。これらすべてに学ぶことが大切で、どんなことからも、どんな人からも、謙虚に素直に学びたいものです。すべてに学ぶ心があって、初めて新しい知恵も生まれてきます。学ぶ心が繁栄へのまず第一歩だと考えます。

     剣道で、面に小手、胴を着けて竹刀で試合をしている間は、いくら真剣にやっているようでも、まだまだ心に隙がある。打たれても死なないし、血も出ないからである。しかしこれが木刀で試合するとなれば、緊張せざるを得ない。打たれれば気絶もするし、怪我もする。死ぬこともある。まして真剣勝負となれば、直ちにいのち生命にかかわる。勝つか負けるかどちらか一つ。負ければいのち生命がとぶ。真剣になるとはこんな姿をいう。人生は真剣勝負である。だからどんな小さな事にでも、いのち生命をかけて真剣にやらなければならない。もちろん窮屈になる必要は少しもない。しかし、人生ときには失敗することもある、などと呑気にかまえていられない。これは失敗したときの慰めの言葉であって、始めからこんな気がまえでいていいわけがない。真剣になるかならないか、その度合いによってその人の人生は決まる。大切な一生である。尊い人生である。今からでも決して遅くはない。お互いに心新たに、真剣勝負のつもりで日々に臨みたいものです。

  • 会員の拡大
  •  お互いに神様ではないのだから、一人の知恵には限りがあります。それがどんなに優秀な人で偉い人であっても、やっぱりその人一人の知恵には限りがあり、その限りのある知恵で長い人生を歩み、広い世の中を渡ろうとすれば、あちらこちらで迷い、躓くでしょう。自分一人で済むことならそれでもまだよいかもしれませんが、この世の中に住む限り、人々は皆繫がっていますから、自分が躓けば、他人も迷惑します。他人に迷惑をかけるくらいなら、一人の知恵で歩まぬほうがいいのが道理です。わからないことは聞いてください。知らないことは尋ねてください。たとえわかっていると思うことでも、もう一度人に聞いてみましょう。「見ることひろ博ければ迷わず。聴くこと聡ければ惑わず」という古言があります。相手がどんな人であろうと、こちらに謙虚な気持ちがあるならば、思わぬ知恵が与えられる。つまり一人の知恵が二人の知恵になるということです。二人が三人、三人が四人。多ければ多いほどいいのです。衆知を集めるとは、こんな姿をいいます。お互いに、一人の知恵で歩まぬよう心掛けたいものです。

  • 青少年の育成
  •  自分には自分に与えられた道があります。天与の尊い道があります。どんな道かはわかりませんが、他の人には歩めない道です。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがいのない道です。広い時もあれば狭い時もあり、上りもあれば下りもあります。この道が果たして良いのか悪いのか、思案にあまる時もあるでしょう。慰めを求めたくなる時もあるでしょう。しかし、所詮はこの道しかないのです。諦めろと言うのではありません。今立っているこの道、今歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことが大切なのでしょう。自分だけしか歩めない大事な道です。自分だけに与えられている、かけがいのないこの道なのです。他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけません。道をひらくためには、まず歩まねばなりません。心を定め、懸命に歩まねばなりません。それがたとえ遠い道のりのように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくるはずです。そして同時に深い喜びも生まれてくるはずなのです。

     子供の心は素直です。ですから分からぬことがあればすぐに問います。“なぜ、なぜ”と。子供は一生懸命です。熱心です。ですから与えられた答えを、自分でも懸命に考えます。考えて納得いかなければ、どこまでも問い返します。“なぜ、なぜ”と。子供の心には私心がありません。囚われがないのです。良いものは良いし、悪いものは悪い。ですから思わぬ物事の本質をつくことがしばしばあるわけです。子供はこうして成長していきます。“なぜ”と問い、それを教えられて、その教えを素直に自分で考えて、さらに“なぜ”と問いかえして、そして日一日と成長してゆくのです。私たち大人もまた同じでありたい。毎日を新たな心で迎えるには、いつも“なぜ”と問わねばなりません。そしてその答えを、自分でも考え、また他にも教えを求めねばなりません。素直で私心なく、熱心で一生懸命ならば、“なぜ”と問うタネは随所にあるはずです。それを見失って、今日は昨日の如く、明日も今日の如く、十年一日の如き考えに堕したとき、その人の進歩は止まります。社会の進歩も止まります。繁栄は“なぜ”と問うところから生まれてくるのだと強く信じています。

     世間というものは、厳しくもあるし、また暖かくもあります。いい加減な仕事をやって、いい加減に過ごすことも、時には見逃されて過ぎてしまうこともあるのです。つまり広い世間には、それだけの包容力があるということです。しかしこれに慣れて世間をあまく見たならば、やがては身の締まるような厳しい思いをしなければならなくなります。また、いい考えを持ち、真剣な努力を重ねても、なかなかこれが世間に認められないときがあります。そんなときには、世間が冷たく感じ、自分は孤独だと考え、希望を失いがちとなりますが悲嘆することはありません。思わぬところで見ていてくれる人、評価してくれる人がいるものです。そこに世間の思わぬ温かさが潜んでいるのです。いずれにしても世間は厳しくもあり、暖かくもあります。ですから世間に対してはいつも謙虚さを忘れず、また希望を失わず、着実に力強く自分の道を歩むよう心掛けたいものです。

     人間はえらくたいしたものであります。動物ではとても出来ないことを考え出して、思想も生み出せば物もつくりだします。まさに万物の王者です。しかしそのえらい人間も、生まれ落ちたままに放っておいて、人間としての何の導きも与えなかったならば、野獣に等しい暮らししか出来ないかもしれません。古来、どんなに優れた賢者でもその幼い頃には、父母や先輩の教えを受け、導きを受けてきたわけです。その上に立っての賢者であって、これらの教え導きがなかったら、せっかくの賢者の素質も泥に埋もれたままであったでしょう。教えずしては、何ものも生まれてはこないのです。教えるということは、後輩に対する先輩の、人間としての大事な務めなのであり、その大事な務めを、お互いに毅然とした態度で、人間としての深い愛情と熱意をもって果たしているかどうか。教えることに、もっと熱意を持ちましょう。そして、教えられることに、もっと謙虚でいましょう。教えずしては、何ものも生まれてはこないのです。

  • 資質の向上
  •  志を立てましょう。本気になって、真剣に志を立てましょう。いのち生命をかけるほどの思いで志を立てましょう。志を立てれば、事はもはや半ばは達成したといってよいでしょう。志を立てるのに、老いも若きもありません。そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのでしょう。今までの様々の道程において、幾度か志を立て、幾度か道を見失い、また挫折したこともあったでしょう。しかし道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではないでしょうか。つまり、何か事を成したいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではないでしょうか。過ぎ去ったことは、もはや言いません。帰らぬ月日に愚痴は漏らしません。そして今までは他に頼り、他をあてにする心があったとしたならば、潔くこれを払拭しましょう。大事なことは、自らの志です。自らの態度です。千万人といえども我行かんの烈々たる勇気です。実行力です。志を立てましょう。自分のためにも、ひと他人のためにも、そしてお互いの国、にっぽん日本のためにも。

     春が来て花が咲いて、夏が来て若葉が萌えて、野山はまさに華麗な装いであります。様々の花が咲き、様々の草木が萌え、様々の鳥が舞います。様々、とりどりなればこそのこの華麗さであり、この自然の装いであります。花はカタクリだけ、木はコブシだけ、鳥はウグイスだけ、魚はアユだけ。それはそれなりの風情はあろうけれども、この日本の山野に、もしこれだけの種類しかなかったとしたら、とてもこの自然の豊かさは生まれ出てこなかったことでしょう。いろいろの花があってよかった。様々な木があってよかった。たくさんの鳥があってよかった。たくさんの魚があってよかった。自然の理の有難さであります。人もまた様々です。様々の人があればこそ、豊かな働きも生み出されてくるのです。自分とひと他人とは、顔も違えば気性も違う。好みも違う。それで良いのです。違うことを嘆くよりも、その違うことの中に無限の妙味を感じたいのです。無限の豊かさを感じたいのです。そして、人それぞれに力を尽くし、人それぞれに助け合い、色々の人があって良かった、様々の人があって良かったと思いたいのです。

     学校の先生を軽んじ、師と仰ぐ気持ちがなかったら、先生も教える張り合いがないし、生徒も学びが身につかないわけでして、これは社会にとっても大きな損失であります。やはり聖職の師として先生を敬い、謙虚に師事する姿から、一言一句が身につき成長するのです。親を大事にし、上司に敬意を払いましょう。先輩に礼を尽くし、師匠に懸命に仕えましょう。親や師に対するだけではなく、良き仕事をする人を心から尊敬し、一隅を照らす人にも頭を下げましょう。天地自然、この世の中、敬う心があれば、敬うに値するものは無数にあるます。犬や猫には敬う心の働きはありません。だが人間は皆の中に敬うべき価値を見出す能力が与えられています。本質として与えられているのです。その本質を活かしつつ、敬うべきものを敬うことによって自他共の心を豊かにし、高めることが出来るのは人間だけではないでしょうか。その人間の特性を素直に活かしたいのです。敬う心を高めて、お互いの豊かさを図りたいのです。

  • 地域の活性
  •  世の中はとても広い。その広い世の中を、狭い視野で進めば行き詰まるわけです。人生は長い。その長い人生を、狭い視野で歩めば息が切れるわけです。視野が狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかけます。ですからお互いの繁栄のために、お互いの視野角をぐんぐん広げなければなりません。十度の視野は十五度に。十五度の人は二十度に。もっとも、百八十度まで広げてみても、それでようやく、物事の半面が分かっただけですから、本当は三百六十度を見渡さなければなりません。それが、真のゆうづう融通むげ無碍、つまり解脱というものではないでしょうか。ですがなかなかこうはいきません。百八十度も広がればたいしたもので、普通は、せいぜい十五度か二十度ぐらいの視野で、日々を歩んでいるのではないでしょうか。ですから争いや悩みが起きるのです。そして繁栄が損なわれるのです。視野を広く、どんなに広げても広すぎることはありません。お互いの繁栄と平和と幸福のために、誰もが広い視野を持つように心掛けたいものです。

     完全無欠を望むのは、人間の一つの理想でもあり、また願いでもあります。ですからお互いにそれを求めあうのも仕方がないけれども、求めてなお求め得られぬままに、知らず知らずのうちに他をも苦しめ、自らも悩むことがしばしばあります。しかし人間に完全無欠ということが本来あるのでしょうか。松の木に桜の花を求めるのは無理です。松は松、桜は桜。牛は牛であり蟻は蟻です。つまりこの大自然はすべて、個々には完全無欠でなくとも、それぞれの適性の中でその本領を生かし、互いに与え与えられつつ、大きな調和の中に美と豊かさを生み出しているのでないでしょうか。人もまた同じことだと思います。お互いそれぞれに完全無欠でなくとも、それぞれの適性の中で、精一杯その本領を活かすことを心掛ければ、大きな調和のもとに自他共の幸福が生み出されてくるのでしょう。この素直な理解があれば、おのずから謙虚な気持ちも生まれてくるし、人を許す心も生まれてきます。そして、互いに足らざるを補い合うという協力の姿も生まれてくるでしょう。地域の活性も同じ。繁栄の原理は極めて素直なのだと考えます。

     とにかく考えてみること、工夫してみること、そしてやってみることが大切です。失敗すればやり直せばいいですし、やり直してもだめなら、もう一度工夫し、もう一度やり直せばいいのです。同じことを同じままにいくら繰り返しても、そこには何の進歩もありません。先例に大人しく従うのもいいが、先例を破る新しい方法を工夫することの方が大切です。やってみれば、そこに新しい工夫の道もつきます。失敗することを恐れるよりも、生活に工夫のないことを恐れるべきです。我々の祖先が、一つ一つ工夫を重ねてくれたおかげで、我々の今日の生活があるわけです。何気なしに見逃している暮らしの断片にも、尊い工夫の跡が見られます。紙一枚、ペン一本も、これをつくづくと眺めてみれば、なんという素晴らしい工夫でしょうか。まさに無から有を生み出すほどの創造であります。お互いにもう一度考え直してみましょう。昨日と同じことを今日は繰り返さず、どんなに小さなことでもいいです、どんなに僅かなことでもいいです。多くの人々の、この僅かな工夫の累積が、後に大きな繁栄を生み出すのでしょう。

  • おわりに
  •  山は西からでも東からでも登れます。西の道が悪ければ東から登ればよいのです。東が険しければ西から登ればよいのです。道はいくつもあるはずです。時と場合に応じて、自在に道を変えればよいのです。一つの道に執着すれば無理が出ます。無理を通そうとすると行き詰まります。動かない山を動かそうとするからです。そんな時は山はそのままに、身軽に自分の身体を動かせば、またそこに新しい道がひらけてくるのです。何事も行き詰まれば、まず自分の物の見方を変えることが大切です。案外、人は無意識の中にも一つの見方に執着して、他の見方のあることを忘れがちです。そして行き詰まったといいます。行き詰まらないまでも無理をしています。貧困はこんなところから生まれます。我々はもっと自在でありたいのです。自在に物の見方を変える心の広さを持ちたいものです。何事も一つに執着すればげんこう言行公正を欠きます。深刻な顔をする前に、ちょっと視点を変えてみるのがよいのです。それで悪ければ、また見方を変えればいいのです。そのうちに本当に正しい道がわかってくるのだと思います。模索の本当の意味はここにあるのでしょう。そしてこれができる人には、行き詰まりはないのではないかと思います。お互いに、この気持ちで繁栄への道を探ってみたいものです。

     人間のいのち生命は尊いです。尊いものは誰もが尊重しなければなりません。ところが、自分のいのち生命の尊いことはわかっても、他人のいのち生命もまた尊いことは忘れがちであります。となると私心に走り私利私欲が先に立ち
    ます。つまり、自分に囚われるということで、これも人情としてやむを得ないことかもしれません。しかし、これでは本当に相互の繁栄は生まれないでしょう。人間本来の姿は活かされないでしょう。やはり、ある場合には自己を没却して、まず相手を立てる。自己を去って相手を活かす。そうした考えにも立ってみなければなりません。そこに相手も活き、自己も活きる力強い繁栄の姿があるのです。尊い人間の姿があるのです。自己を捨てることによってまず相手が活きるのです。その相手が活きて、自己もまたおのずから活きるようになります。これが双方の活かし合いではいでしょうか。そこから繁栄が生まれ、豊かな平和と幸福が生まれてくるのでしょう。お互いに、広く社会の繁栄に寄与するため、お互いを活かし合う謙虚なものの考え方を養いたいものです。

     砂漠に見出す清らかな泉は、旅行く人の喜びであり憩いであり、そして励ましであります。荒涼たる山野に、毅然として咲き誇る一輪の花は、また旅人へのこよなき慰めとなり励ましとなります。今の世の中が、荒野の如く荒れ果て枯れているとは敢えて言いませんが、それでもこの難しい時代に、人々の心は次第に落着きを失って、索漠たる気配が感ぜられぬこともありません。お互いに手をつなぎ、助け助けられながら生きねばならないこの世の中であります。人の心が砂漠の如く荒れ果てては堪りません。せめて我々だけでも、清らかな泉のように、毅然たる一輪の花のように、強く正しく生きてゆこうではありませんか。難しいことかもしれませんが、自分の生き方に誇りを持ち、自分の行動に意義を感じるならば、我が身の処し方もおのずから見出されてくるでしょう。どんな世の中になっても、慌てず、うろたえず、淡々として社会への奉仕を心掛けていきましょう。その姿自体が、人々にとってすでに大きな励ましとなり、憩いとなるのです。花のように、泉のように。そこに我々の喜びもあるのです。

    それは夢にすぎないでしょうか
    ただお互い同じまちに生きるひととして
    素直に心と心を寄せ合い手と手を握り合って
    このまち魚沼の繁栄と平和と幸福とを
    ひとすじに探し求めることができないでしょうか
    真剣になれば意見の対立も起きるでしょう
    ですが私たち魚沼人としての願いが一つならば
    かならずそこに高い調和と力が生まれることでしょう
    それは決して夢ではないはずです

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